敦亀通信
小春日和の小谷山
更新日:2017/12/06
小春日和の12月2日、友と一緒に滋賀県湖北にある小谷山に登った。この山は戦国時代に浅井家が築いた小谷城の城跡があり、歴史好きの観光客が訪れるところである。今日は登山口の駐車場でなく中腹の駐車場に車を止めた。ゆるい坂を歩きながら振り返るとちょっと見晴らしの良いところがある。この山はどこからでも琵琶湖が見えるが、竹生島がとっても魅力的な姿を見せてくれる場所である。ここで育った浅井長政の娘、茶々を思い出した。茶々姫、後の淀君が竹生島の宝厳寺に多額の寄付をしお寺の再興をしたといわれる。おそらく幼少の頃から竹生島は淀君にとって遠く離れた大阪城にあっても父母、姉妹を思い出す特別な島であったのではないだろうか。登るにつれて馬を洗った池や番所跡があり、やがて千畳敷の建物跡につく。ここは広々としており色々な行事や会議があった場所であろうか。宴会も開かれたはずだ。荒城の月の歌詞「めぐるさかずき影さして、、、」の歌が心に浮かんできた。暗い夜であればもっと雰囲気が出てくるだろうと思ったが、何か怖いものが出てくるのではないだろうか。登りながら長政が信長勢に滅ぼされた理由を考えた。信長の妹を嫁にもらっていれば信長の義弟にあたる。しかし浅井家は以前から越前朝倉家と誼を通じている。長政の父である久政はこれまでの朝倉家への義を重んじ長政に対し信長に背くことを要求したのであろうか。親に孝なれば義兄に信ならず、迷いに迷ったあげく越前に攻め入った信長勢の背後をついたということである。現代でもこうしたことはよくあることだ。仕事や友人、家族などの関係で私達もこれとよく似た状況に陥ることがある。しかし、背後を襲われた信長が敗れるという可能性もあったはずだ。長政にとって、あの時点では迷いに迷い深い熟慮の上に行動したことであろう。100%成功するという確信をもてる計画などというものはいつの世にも存在しない。長政の決断は結果として悲劇を招いたという歴史上の事実が残っているだけである。これと同じではないが、この後数年後におこった本能寺の変にも似たケースがある。光秀は信長を倒した後、娘を嫁がせている細川幽斎は若い頃からの親友でもあり必ず味方になってくれると信じていたので、一緒に決起しようと手紙を送ったのである。手紙を受け取った幽斎も長政と同じような状況に陥ったはずである。このときとった行動は頭を剃髪し隠居するということであり力と将来性をもった秀吉に背かなかったということであった。ここで失敗しておれば、400年後、昭和の時代に細川内閣は誕生しなかったかもしれない。平家物語にいう諸行無常の鐘の声、おごれるもの久しからずというが「身の処し方」によって大きく変わるようだ。上のほうから男性が降りてくる。この方も年齢は70歳前後、何度も出会って挨拶を交わす旧知の方だ。今日も懐かしそうに声をかけてきた。我々2人が福井の人間と分かっているので、「ようこんな遠い山に来てくれて、」我々も「お久しぶり、いつも変わらず元気ですな、」会話が弾む。しかしお互い名前は知らない。山に来るとみんな陽気でいい人になるのですぐに打ち解ける。1ヶ月間で25回はこの山に来ているという。熊にも年2~3回は逢うとのこと。これから帰って入浴し一杯飲むのが無常の喜びとか、うらやましい限りである。伊吹山から琵琶湖まで一望に見渡せる景色の良い場所でノンアルコールビールを一気にのみほした。美味かった。