敦亀通信

儲けすぎた男、安田善次郎 お正月読書

更新日:2021/01/06

令和3年は折からの雪とともに開けました。コロナ、雪、みぞれ模様の天候で人は誰でもステイホームを余儀なくされ、そんな次第で私も静かなお正月を迎えてました。こんなときこそ普段、落ち着いて本を読めない自分を反省し、読み応えのある本に取り組みました。その名も「儲けすぎた男 小説 安田善次郎 文芸春秋」です。江戸、明治、大正、昭和と激動の時代を生き抜いた安田財閥の創始者、安田善次郎の一代記です。加賀前田家の支藩にすぎない越中富山藩の最下層士族の家に生まれた善次郎は、武士とは名ばかりの百姓仕事に明け暮れる毎日でした。このままでは自分の人生が開けないと感じ江戸へ一度ならず出奔するものの、いずれも連れ戻されてしまいます。しかし3度目に親戚のとりなしで、ようやく認められ江戸で小さな両替やを開業することができます。両替屋というとお金持に見えますが、善次郎の店はわずかな両替手数料を稼ぐ露天商で、コメやみそまで商う小さなお店でのスタートでした。そのような店でも必死になって働きお金をためてお店を大きくして行くのでした。両替商とは文字通りお金の両替で商人たちが1日の商いで手に入れた1両小判や2分銀などの高額貨幣を1銭1文単位の少額貨幣に両替するものです。勿論、両替手数料は小さいのでお店の商いも小さいものでした。商い方法はお店で両替のお客様を待ち受けるというやり方でしたが、善次郎は直接おなじみの得意先を訪問し両替の御用聞きサービスを始めることで自店の商い大きくしていったといわれます。善次郎の精勤さと人物を見込んだ、お年寄りの同業が、こう言って善次郎を励ましました。「気張って商いに精を出すんだよ。あんたは必ずモノになる。いいかい、世の中の動きにただ身を任せるようではいけない。世の中を先取りするような商いを見つけることだ。」「何が起きても不思議は無い。でもね、金だけはどんな時でも大事なもんだ。金さえあればね、全てを乗り切れるのがこの世だよ」善次郎はこの教訓を守り、日々の仕事に益々励んだのでした。折から、時代は西から薩長を主力とする官軍が江戸に迫り、幕府はなんとか旧体制を維持しながら新しい道を模索していました。江戸は動乱の時代にあったため市中には物取りや押し込み強盗が頻繁に発生しました。両替屋はお金を取り扱う場所であり、強盗に1度ならず3回も襲われたそうです。仕事が終わった後、強盗に押し込まれたときには、さからわず、あらかじめ保管しておいた数量分を渡すことで事なきを得たそうです。強盗の方でも、その金を受け取ると、それ以上の金は要求せず引き取ったということです。しかし善次郎の度胸の良さにも感心します。そんなときに、幕府の財政を担当する役人から小判や壱分銀などの取り扱いの際に必要となる膨大な量となる両替を依頼され、この任務を立派に果たすことで彼の信用が高まってゆきます。官軍が政権を取った後は、小判や壱分銀に代わり新政府が発行する太政官札への対応も必要でした。こうした任務は、貨幣価値が一般国民に信頼されていない状況の下で、大きな金額をやり取りするわけですから大変な任務でありました。時代とともに変わる政治、経済、金融の行方をしっかりと理解し、今後の流れを読み取る、、、言葉でいえば簡単ですが、一歩間違えれば、貨幣価値が暴落する恐れがあり、普通の人では到底できない事であっただろうと思います。しかし善次郎はそれをやり切ったわけです。三井組の大番頭 三野村利左エ門との出会いは、彼にとって良き先輩であり、油断のできないライバルでもありましたが、共に最新の情報を得て困難な道を切り開く良きパートナーでありました。かくて江戸から明治への動乱を乗り切り、みずほ銀行をはじめとして安田グループを作り出したのでありました。何かにつけ損になることはしない実業家、といわれた善次郎ですが80歳を超えた昭和の時代に、東京大学構内の安田講堂を寄付し東京都には日比谷公会堂を寄付しています。今ならば数十億にもなる金額であると想像されます。しかし善次郎は自宅を訪ねてきた暴漢により突然の最後を迎えました。私のような未熟者がビッグな安田善次郎を評価するなんて大それたことはできませんが動乱の時代を生き抜いた男の生きざまを強く刻み込まれました。余談になりますが、越中富山は昔から大人物を数多く輩出しています。善次郎と同時代に活躍した大谷米太郎氏は関東大震災後、大谷重工を設立し、ホテルニューオータニは今でも格式あるホテルとして人気があります。もう少し後になりますが読売新聞、日本テレビを作った正力松太郎、YKK吉田工業を作った吉田忠雄など実業界に大きく足跡を残しています。
越中富山といえば、売薬を背中に担ぎ全国津々浦々を回った薬売りが目に浮かびます。私も幼いころ、富山の薬売りのおじさんが我が家に来ると紙風船をもらえたのでいつも心待ちにしていたものでした。冬はみぞれと雪に苦しむ気候ではあるが、時折、晴れ間を見せることもあります。眼前には雄大な立山、そして急峻な剣岳がそびえ立ちます。幼いころからこうした厳しく、神々しい自然や気候の下、大きく育つ人も数多く居たのかもしれません。私のいる福井県も白山があり日本海の荒海、素晴らしい自然に恵まれて昔から多くのすぐれた人物がおられます。コロナで苦しめられていますが、必ずそれを克服し大きく飛躍できることを信じています。