敦亀通信

連休の1日・山本山

更新日:2022/05/13

大型連休の1日、憲法記念日に琵琶湖湖畔、山本山に登った。以前、海苔の会社が「上から読んでも山本山、下から読んでも山本山」というPRを流していた。この山はここ数年、何回も登っている。標高も300mあまりでおだやかな登りなので自分にとってお気に入りの一つである。

(山本山と付近の地図)

 

以前、山本山には「山本山のおばあさん」というおばあさんがいた。といっても、「昔々あるところにおじいさんとおばあさんがいました。」の「おばあさん」ではない。おばあさんとは年老いたオオワシである。毎年11月下旬ごろに、遠くシベリアから飛来し翌年3月下旬には再びシベリアに北帰行すること22年、山本山のおばあさんと呼ばれる由来である。彼女が山本山に滞在し時折、琵琶湖で魚を採っている姿を撮影せんものと滞在期間には多くのアマチュアカメラマンがレンズを山本山に向けている。今年3月2日には北帰行となったとのことでありカメラマンの姿もない。

いつもであれば同行パートナーTさんと一緒に登っているが今日は単独行である。天気も良し、新緑がまぶしく感じられ最高の登山日和である。登山口の左に朝日小学校、右に朝日山神社がある。カーナビで「アサヒショウガッコウ」と入力し検索したところ全国で「朝日」,「旭」と名付けられた校名が100件以上出てきた。教育の世界ではしずむ夕日より、のぼる「旭」、「朝日」が好まれるのだろう。石段の道を登り始めて5分、常楽寺に着く。 真言宗のお寺で現在は無住かもしれない。

(改修中なので看板でご紹介します。)

 

境内のあちこちに人物の半身像が置かれている。長年の風雨にさらされ表情もはっきりしないが手を合わせ祈っている姿は尊い。中でも睦ましく手を取り合っている夫婦像?も数体あった。きっと子供たちが

今は亡き両親の姿を偲んでつくったのであろう。

比較的新しい3人ペアの石像がある。

その表情の温かさに心を癒される。「この顔、この表情こそ仏教でいう顔施(がんせ)であろうか」お金や名誉が無くても柔和で幸せな表情をお布施代わりにすることが出来れば、周囲の人も自分も幸せに近づくことだろう。」と、日頃、笑顔が不足気味の自分を反省した。

少し上がると「平和を祈る鐘」がある。ここなら、住宅地とは離れているので鐘を撞いても騒音にはならないだろう。遠慮しながら、そっと撞いてみた。おだやかで落ち着いた音であった。これぞ平和を祈る鐘であろう。かの国の指導者に聞かせてあげたい。しばらく行くと獣害フエンスがある。扉を開けて、ゆるやかに山道を登ってゆく。琵琶湖が見渡せる展望の良い場所もある。ベンチもあるのでゆっくり休憩できるだろう。なだらかな山道が続くが、多少ガレている場所もあるので注意が必要だ。しかし余裕をもってゆっくり登ってゆけば大丈夫である。登り始めて40分程度、やがて頂上に到着する。頂上からは琵琶湖、竹生島がきれいに見える。

   (頂上は広い平地となっている)

 

ここは12世紀、源頼家を系譜とする山本義定、義経が築城した山本城の本丸があった場所である。山本義経は源氏の源義仲に味方し平氏打倒の旗を上げたとされる。その後、源義仲は加賀の国、粟津で源頼朝に滅ぼされたとされるがNHK大河ドラマで見たいものである。

頂上からは来た道を折り返すも良し、若宮山を経由して降りるのも良い。ここから「近江湖の辺の道」(おうみ うみのべのみち)が賤ケ岳まで続いている。賤ケ岳までは3時間余りで、15年ほど前、友人たちと縦走したことがある。しかし賤ケ岳から下った余呉湖畔にも車を置かなければ時間的にも無理であろう。今日はこの近江湖の辺の道を途中まで行ってみることにした。

15分ほど進むとやがて下りとなる。そこから、しばらく進むと右側に古墳が現れてきた。3世紀~7世紀にかけ、付近の豪族たちが生前、若しくは死後に作ったものであろう。長い間に作られた古墳は数多い。どうせ永遠の眠りに就くならば琵琶湖を見渡せるこの山域で、と思うのは当然であっただろう。しかし7世紀になって古墳がなくなるのは何故だろうと考えてみた。ひょっとして538年仏教伝来が影響したのではないだろうか。古墳時代は力のあるものが塚を立てたり墳墓を立てたりし、海外ではピラミッドもその典型であろう。仏教では仏の前では、みな同じであり死んだら土葬、若しくは火葬である。そのような考え方が大和や奈良から広がってきたのであろうか。私のような無知蒙昧な知識で勝手な想像をすることをお許しいただきたい。やがて進行方向の左、琵琶湖に面する片山地区から登ってくる道と右からの熊野地区から登ってくる道が合流する分岐に到着する。案内図を見ると昭和37年まで片山地区から児童たちが熊野地区にある小学校に通っていたと書いてある。毎日、毎日200mあまり上り下りしなければいけない通学路、今なら児童虐待であろう、昔は何の不思議もなかったのだな、と驚く私である。その通学路を熊野地区に下ってゆくと途中に神社がある。感謝の心で手を合わせ祈った。そこからしばらく降りてゆくと田園地帯になる。山裾を清流が流れ、きれいな池もある。沢山の石亀であろうか、しずかに日光浴をしている。当たり前だ、騒ぎ声をあげる石亀は見たことがない。しかし、のどかな風景であった。

池から、15分ほど歩くと、登山口の朝日山神社に到着した。朝日山神社の境内には木曽義仲との関連を示す鎧掛けの松があったが、900年を経て元の松の姿は見受けられなかった。しかしDNAは受け継がれているのか小さな松が案内板の後ろに遠慮がちに立っていた。今日のおだやかな登山は終了した。