敦亀通信

裏切りの構図

更新日:2020/11/11

NHK大河ドラマ「麒麟が来る」を見た。今週は信長の連合軍が越前朝倉に侵攻するというシーンが見せ場であった。4万の軍勢で若狭三方の国吉城に集結し越前侵攻の準備を行う。敦賀の天筒山城を占領、翌日には越前・金ヶ崎城の朝倉景恒は降伏した。自軍の南は義弟、浅井長政が小谷城で後詰の役を果たすことになっており、ここまでは何の問題もなかった。このまま木の芽峠を越えて朝倉家を攻めれば容易に価値を得られるであろう。しかし、そこに誤算があった。朝倉家と浅井家の長年に亘る同盟関係は深いものがあったのである。おそらく父、浅井久政から息子の長政に浅井・朝倉の強力で深い同盟関係を守るように申し付けられたことと推測する。長政にとっては信長の妹、お市の方を妻とし義兄である信長からの命令とは言うものの朝倉との同盟を守ることは当然であった。長政は小谷城を出陣する。勿論、朝倉は北から浅井は南から信長を挟み撃ちにするのである。この情報を受け取った信長は激しく動揺する。その後一転して敦賀からの脱出をはかり若狭から近江の朽木を経由して京都へと逃れるのである。TV放映では信長軍の混乱は伝えるが浅井長政が信長を裏切る際の迷いや恐れについては触れていない。私はむしろ長政の心情にもっと焦点を当てて欲しかった。

越前の歴史を考えると多くの裏切りがあった。このとき信長に従って従軍していた明智光秀は信長を裏切り本能寺で信長を滅ぼしている。光秀が裏切った原因は多くの説があるが、確実な原因はなぞに包まれている。この裏切りも歴史を大きく変えた事件であったといえよう。このとき光秀は信長を滅ぼしたならば、多くの賛同を得られることと思っていたと思われる。その中でも、自分の三女おたまを嫁がせている細川家は必ず味方してくれるものと思っていたのではないだろうか。しかし、細川幽斎は即座に髪を切り引退することによって細川家の存続を期したということは史実にある通りであり、この時の危機を乗り越えた細川家は、江戸期から明治維新を越え昭和には内閣総理大臣まで輩出したのである。この後秀吉は光秀軍を打ち破り信長亡き後の最有力後継候補となるのであるが、ここにもまた裏切りということについて考えざるを得ないシーンが出てくる。秀吉の前に立ちふさがった柴田勝家との間に戦端が切られたのである。ところは近江の賤ケ岳である。柴田勝家は雪深い越前から南下し秀吉と戦うのである。戦いの詳細は省くが大きな敗因の一つとして考えられるのは柴田勝家の与力であった前田利家軍の離反であったのではないだろうか。賤ケ岳の近くに別所山という小高い山があるが、ここに前田利家が守っている砦があったのである。柴田勝家軍の主力であった佐久間玄蕃が秀吉軍と戦っているときに突如、前田利家の軍は兵を引き上げ戦場を離脱してしまったのである。これを見た柴田軍には大きな動揺と恐れが生じ雪崩を打って退却し始めたのであった。結果として柴田軍は敗北し北ノ庄で最期を迎えたことになる。前田利家はなぜ組織上の上司である柴田勝家を裏切ったのであろうかという疑問が生ずる。私の推理だが、2人は年齢も同世代であり長年、信長に仕えている時から仲の良い友達であったのであろうということは容易に考えられる。以前、信長の最後の居城である安土城址に行ったことがある。城は残っていないが城を囲んで家来たちの屋敷跡を示す図面があった。その中で秀吉と利家の屋敷は隣どうしであった。すると秀吉の妻おねねと利家の妻おまつも懇意であっただろうと推測できる。隣り同志でみそやしょうゆも借りあったのかなと、勝手な推測をするのである。このような付き合いであれば利害や組織のしがらみを越えて行動したのかもしれない。ちなみに前田家は、徳川時代にも繁栄し加賀100万石として明治期から現代にまでルーツが続いているのもご承知のとおりである。裏切りという言葉は約束又はそれに近い信頼に背くということであり決して良いことではないが、どうしても裏切らねばならない時もある。古今東西、こうしたドラマが数えきれないほど多くあったであろうし、今も尚、あちらこちらにある。

浅井長政、朝倉義景は信長により己が頭蓋骨を金箔に覆われた酒器にされ酒宴に供された。明智光秀は戦に敗れ逃亡中、農民雑兵に殺されたといわれる。細川家、前田家は明治期まで大名という身分を踏襲し現代まで続いている。裏切りで滅んだ人、栄えた人、どちらが成功者であるか失敗者であるかということなんて考えるのは愚の骨頂というものであろう。当の本人たちは結果について喜んでもいないし、悔いてもいないだろう。あるのは「そのときどう行動するか」に対する自己の信念だけである。