敦亀通信

行市山

更新日:2018/06/22

いつも土曜日には友と滋賀の山に登っている。今日は湖北の行市山を目指した。琵琶湖の北を湖北とよんでいるが2つの山並み(トレイル)がある。福井県との県境を東西に伸びる高島トレイル、琵琶湖の東岸に沿って南北に伸びる余呉トレイルがある。両方とも高度は500mから高くても800mぐらいでなだらかな山がたくさんある。私達、老年者にとっては厳しい山は避けたいと思っているので、ありがたい山並みである。行市山は余呉トレイルの中心部にあるポピュラーな山である。賤ケ岳が羽柴秀吉と柴田勝家の主戦場であることはよく知られているが行市山は賤ケ岳の北に位置し賤ケ岳合戦の前哨となった舞台である。日本列島の南部では梅雨前線が活動し雨模様であるが滋賀県では朝から涼しく曇ってはいるものの絶好の登山日和であった。福井からはR8を南へ、今庄からR365に入り栃の木峠を越えると余呉町新堂地区に着く。新堂の部落を登山口へとすすむ。登山口は「毛受の森」と書かれた標識があり動物避けフエンスを超えてゆく。1583年賤ケ岳の合戦で敗北の色が濃くなった柴田方の毛受兄弟が勝家の身代わりとなってこの場所で討ち死にしたといわれる。ゆるやかな山道を登って行く。やがて尾根に到達した。ここは中谷山とよばれ柴田方の金森長近や不破勝光などが守っていた所とされる。行市山へはここからさらに北西へと進む。木陰から余呉と木の本方面が見える。かくれたビューポイントである。DSC_0401

一旦、下り再び登って行く。やがて別所山へ着いた。ここは柴田方の前田利家親子の砦跡がある。羽柴と柴田の合戦で前田利家親子が突然後方へ転進したことが柴田方の敗因の一つになっている。これにより金森長近も不破勝光も戦いを離脱し柴田勝政、佐久間盛政両軍は壊滅的な敗北を遂げたのは歴史に名高い事実である。後年、加賀百万石の始祖となった前田利家について福井の人間としては一種複雑な気持ちもある。しかし若年の頃より信長に仕えた秀吉と利家の間柄は「オイ、オマエ」の仲でもあったかもしれない。前田軍が佐久間、柴田の両軍の背後を衝かなかったのは多少でも良心に感じるところがあったのであろうか。DSC_0404

 

別所山を越えると急登が続く。やがて行市山頂上に着いた。頂上でカニカマの袋を開けノンアルコールビールで喉を潤す。今日もインスタントラーメンのお世話になるが、キムチ漬けを一袋使ったキムチラーメンである。美味しいの一言だけである。後始末もそこそこに帰り支度だ。

帰り道で刈り払い機を持った若者たちと遭遇する。きけばボランティアで草を刈りに来たという。しかし仮払い機を使うほど山道の草は無かったようである。台風や積雪で大木が道をふさいでいるところが数箇所あったが、チエンソーは重量があり過ぎるのでプロでなければ無理だという。新堂の部落を中心としたグループで山を降りた後、宴会があるのでそれが楽しみだという。それでも、貴重な休日をこうしたボランティア活動に振り向けるのは大変素晴らしいことだ。彼ら一人一人に感謝しつつ労をねぎらった。