敦亀通信

安曇野ウオーキング

更新日:2018/05/28

5月19日長野県安曇野にある池田町のウオーキングに参加した。今日は5月のさわやかな風を受け残雪が残る北アルプスの風景を楽しみながら歩ける。14kmと10kmの2コースがあったので私は14kmのコースを選んだ。14kmを選んだ人たちは健脚の人が多く歩いようだ。歩くペースが早い。こちらも一生懸命、歩かないと、どんどん遅れてしまう。しかし、今日のコースは風光明媚な安曇野なので景色を愛でながら歩くことにする。田植えが終わったばかりの水田の水面に残雪を抱いた北アルプスが写りツバメが舞い踊っている。冬が厳しかった分、全ての生き物や草花たちが春を謳歌している。

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スタートして10kmぐらいの地点で昼食場所となっている池田八幡神社があった。ここで豚汁と味噌おむすびの振舞いを受けた。白いおむすびがラップで包んであり、カラシ味噌、蕗味噌、ネギ味噌などお好みに応じ味を選べる。地元のボランティアメンバーが「豚汁の味が濃すぎることは無いですか」と、きかれたので「ちょうどいいですよ、ありがとうございます。」と御礼を述べさせて頂いた。

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本殿にお参りしたところ、中に畳一帖ほどの額がおかれていた。中に二文字大きく「振武」と揮毫されている。

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力強く達筆である。海軍大将 加藤寛治とあった。この方は福井出身の大先輩であり同じく福井出身、岡田啓介海軍大将の3期ほど後輩にあたる。日露戦争では戦艦三笠の砲術長として東郷平八郎、海軍元帥を支えた郷土の偉人である。昭和5年浜口雄幸首相と若槻礼次郎外相のもとロンドン軍縮会議で米英日の所有補助艦の割合を10・10・7と決めたのであるが。国内は軍縮を主張する条約派と欧米に負けない軍事力を維持すべきとする艦隊派に分かれて激しい議論があったとされる。艦隊派の加藤寛治大将は軍令部総長であり天皇陛下のみが有していた統帥権の代理権を陸軍参謀総長と同じく有していた。加藤大将は、このような決め事を政府が天皇陛下の裁断を得ず決定したのは統帥権を無視したもので統帥権干犯として激しく抵抗した。岡田啓介はこのとき(前)海軍大臣という立場であったが、軍縮の重要性と国際協調のため加藤大将を我慢強く説得したのであるが、それもかなわず最終的に加藤大将が軍令部総長を退任するということになった。このときの出来事だけが原因ではないが、日本は太平洋戦争への道をまっしぐらに突き進んだといわれる。後日、浜口氏首相は東京駅で右翼に襲撃され重傷を負い、その後死亡となった。また、2年後の昭和7年5月15日には武装した海軍青年将校等がときの総理大臣犬養毅を襲撃、殺害している。昭和11年2月26日には岡田首相をはじめ多くの重臣が反乱部隊の襲撃を受けている。「振武」という言葉は武を振るう、ということで軍隊華やかりし頃には立派な言葉であった。八幡神社は武運の神様を祀っているというが、振武という言葉は国民のため、世界平和のために書かれたものであろう。

私の前には稲盛和夫氏の本がある。タイトルは「燃える闘魂」内容は瀕死の日航に乗り込み会社再建に辣腕を振るった稲盛氏の体験記である。昔の武人は武を以って命を国に捧げた。経済社会に生きる経営者は自分の全能力を会社とお客様、社員、社会の進展に捧げている。「振武」も「燃える闘魂」も文字は違うが目指すものは一緒であろう。今日のウオーキングは楽しみ半分、自分の健康増進半分である。これからも楽しく元気に生きてゆきたい。