敦亀通信

福井大地震

更新日:2017/09/12

9月1日は防災の日である。大正13年9月1日あの有名な関東大震災が起きた日を記念して防災を忘れないようあちこちで避難訓練などが行われている。地震といえば、我が福井でも大震災が起きた。昭和23年6月28日夕刻のことである。当時、私も5歳になっていておぼろげながら地震の様子が記憶に残っている。終戦後間もない時であり食糧事情は格段に悪かったと思う。米軍のことを当時、進駐軍とよんでいたが、福井市の復興を支援する任務も持っていたようである。その進駐軍が各家庭に砂糖をいっぱい配給していた。砂糖といっても、昨今のように白色ではなくうす赤い砂糖であった気がする。その砂糖と少量の水を鍋に入れ七輪(今では見られなくなったが)にかけて、ぐつぐつ煮つめ飴にするのである。母は長い箸を使って鍋をかきまぜながら飴を煮詰めていた。8歳と7歳になる2人の姉、そして5歳の私の3人の幼子が飴ができるのを今か今かと鍋を見つめながら待っている。妹は生まれて間もない新生児であり傍らに寝かしてあったのだろう。突然、頭の上でガラガラという聞いたことも無いような大きな音がした。後から知ったのだが、お隣の女学校の木造校舎が崩れ落ちた音であった。間をおかず、今度はグラグラと大きなゆれを感じた。幼かった私は地面に倒れてしまった。倒れるだけであればよかったのであるが、そこにはジャガイモが一面に敷き詰めてあったのである。当然ながら、ジャガイモは、あちらこちらとごろごろころがる。その上によっんばいになって倒れた私もジャガイモと一緒にあちらこちらころがりまくったのである。その時の気持ちはどうであったかと聞かれても5歳の子供に考える余裕など皆無であった。無我夢中でころがっていたとき、母が私を小脇に抱きかかえ外に逃げてくれた。おかげさまで私は助かったのである。若し母が居なければ私は生きては居なかったはずである。このときの様子は古い映画のイメージのように情景だけが私の脳裏に残っている。激しい揺れがようやく収まってから外の様子を見ると平屋建ては比較的に当会を免れたが2階建ては100%倒壊していた。私の家は福井駅の東にあったが西のほうを見ると大きな炎が見えあちこちで救いようのない火事となっている。水道が出ないので姉たちと手押しポンプのある家に水をもらいに行った。途中、倒壊した家屋の下から男か女かは分からないがしきりに助けを呼んでいる。しかし周囲の人たちはどうすることもできない。今なら救急隊の出番となるのだろうが、災害があちらこちらで発生して居る状況である為。助けに来る人なんて皆無である。助けを呼ぶ声もだんだん小さくなっておそらくその後、死亡したのであろう。夜は畑に蚊帳を張って寝た。西の空が火事で真っ赤になっていた。当時、まだ5歳であった私にとって、いろんなことを記憶するのは、あまりにも小さな記憶容量であり理解する能力もなかった。だから断片的にしか語れないが、以上のことは強烈な記憶となって私の記憶に残っている。いつかは、こうした天災が再びやってくるのであろう。そのときは、福井大地震と同じような光景があちらこちらに再現されるかもしれない。私達の安全を守る消防署も警察署もあてにはできない。いや、このごろでは北朝鮮のミサイルも飛んでくるかもしれない世の中だ。まさかのときの覚悟が求められる今日この頃である。