敦亀通信

福井の偉人

更新日:2020/06/26

数か月前、横須賀市の先輩からメールをもらった。「幕末期の福井には笠原良策という素晴らしいお医者さんがいたんだね」とのことである。当方、由利公正や橋本左内という名は知っていたが笠原良策という名は知らなかった。先輩は吉村昭氏の歴史小説「雪の花」を読んだそうである。早速、その本を購入して読んでみた。著者、吉村氏の奥様は小説家でもある津村節子氏、この方も福井とご縁の深い小説家である。全世界的に猛威を奮っている新型コロナウイルスの件もあり一気に読み終えた。当時、冬になると日本中で天然痘が大流行となり多くの子供達が死亡したとのことである。現在では牛を介在した種痘による予防法が常識であるが、これ以前には新型コロナと同様、感染した場合には打つ手がない状態であった。良策は一介の町医者であったが、種痘技術に挑戦し京都と福井で4人の子供たちに痘苗を移植し福井まで送り届けたのである。子供たちの親には、種痘を受ければ天然痘にはならないことを説明するとともに多額の謝金も支払っている。一介の町医者、笠原良策が私財を投げうち痘苗を京都から福井まで持ってくるのは大変だった。福井藩の公認医師連中は牛から移植する種痘というものが大変危険であると強く反対した。こうしたことから、多くの人からの誹謗中傷は勿論、周囲の子供たちからも石を投げられるような事もあったという。しかし天然痘から多くの人を助ける、というゆるぎない笠原良策の信念は強かった。文中、福井県人であればすぐに分かる地名が随所に出てくる。天然痘で死んだ多くの人達を大八車に積んで明里町へ運ぶのが冬の風物詩であった、というくだりは福井に住んでいるものであれば生々しい描写である。京都から福井まで痘苗を子供から子供に移し替えて運ぶのであるが、米原を経由し県境である栃木峠を越え現在の国道365号から今庄を目指したのである。滋賀県側の柳ケ瀬部落を越えたあたりから大雪となり県境の栃の木峠では吹雪で全員遭難一歩手前となった。しかし出発時に依頼してあった今庄側からの救出隊によって助けられたという。私自身、同じルートを車で走ることがあるが当時の苦労を思うと手を合わせたくなる。おかげさまで福井藩は勿論、種痘技術が全国に広がり多くの子供たちが天然痘にかかって死亡するという痛ましい出来事はなくなったという業績は大きい。今、我々は新型コロナウイルスのニュースに一喜一憂しながら今後の第二次感染爆発に恐れおののいている。自分自身を守るとともに他人にも迷惑とならないよう心掛けてゆきたい。我々本来の目的であるお客様、社会、自分たち自身の進歩と発展のため努力を惜しんではならないだろう。苦しい時には福井の偉大な先人「笠原良策 先生」に思いを馳せたい。