敦亀通信
オヤとカネ
更新日:2020/09/24
9月22日火曜日は秋分の日で4連休の最終日である。今日も良く晴れ上がり絶好の登山日和となった。いつもなら滋賀の山々を目指すのが、今日は初秋のキノコを求めて奥越方面を目指すこととした。毎年9月中旬にはマイタケが自生しているスポットがある。マイタケは漢字で書くと舞茸であり読んで字のごとく見つければ舞い上がるほど嬉しいキノコである。たしかに野生のマイタケはお店で並べられているマイタケとは異なり香りも良い気がする。実際には香りも味も天然と人工栽培との間に違いがないのかもしれないが、とったときの喜びはなぜか大きいのである。私と友は今まで4年間、その山のマイタケにお世話になってきた。山道から数mそれたところにナラの古木が1本生えている。その木の根元にマイタケが生えている。たった1本の木であるが、2人で分けても十分な量である。秋から冬にかけて山歩きをすると紅葉や雪景色も心を和ませてくれるが、この季節にあらわれるナメコ、シメジ、等いろいろなキノコをみると物欲が沸き起こるのを抑えきれない。今日もそんな楽しみを抱いてその山に登って行ったのである。ものの10分も登ったであろうか、しかし、、、、
いつものところに件のキノコはなかった。というのは、その古木が倒れ朽ち果ててしまっていたからである。二人とも期待していただけに残念な思いであった。その後、通常の山歩きとなって早い時刻に帰宅した。しかし、この文を綴りながら考えた。そもそも、この古木は初秋には毎年我々2人に対し美味しいマイタケを提供してくれたのである。「いつまでもあると思うなオヤとカネ」のことわざがある。なんであのとき自分は長く生き続け使命を終えて土に帰った古木を思い、「よく頑張ったね、今までありがとう」と思わなかったのだろうか。残念だが自分は厳しい娑婆に生きていると、古木よりもキノコそのものを思ってしまう習性が身から離れない。これも世の習いであり仕方がないだろう。しかしこれからの行動には表面的な価値観だけでなく、それを生み出している本質的な価値観も忘れてはならないだろう。オヤを大事にしなければ、と思うが私の両親はとっくに亡くなっているので心の中で感謝の思いをいだいたのでした。
大野市街 遠望