敦亀通信

おとっちーかった「オトチの岩窟」

更新日:2018/10/25

 

 

暑い夏の一日、石田三成が関が原で敗れた後、隠れたというオトチの岩窟を訪ねて滋賀県木ノ本町、古橋地区に来た。この付近は、木ノ本町の中心部から南東へ下がったところで、なだらかな山がいくつも連なっている山紫水明の土地だ。紅葉がきれいにな11月頃は車で乗り入れることも出来ないほど観光客で賑わいをみせる。いつもであれば,ここから己高山(922m)を目指すのであるが、今日は別ルートを辿ることになる。初めてのコースなのでオトチの岩窟までのルートが示された1/25000の地図を準備してきた。地図をみると木ノ本町運営の温浴宿泊施設「己高庵」の裏手から、ゆるやかな山腹を登って行くこととなっている。所用時間は1時間30分程度と見込んだ。昨日までの雨は上がったものの、山道は蜘蛛の巣が無数に這っていてそれが顔にへばりつくと、手で顔をぬぐわなければ不快な気分となってしまう。蜘蛛の巣をはらうためストックを垂直にかざしながら歩かねばならない。蜘蛛の立場ではせっかく作った自分の猟場兼、マイホームを得体の知れない巨人に壊されちゃうのだから災難である。雨上がり直後とあって湿度も高く草木が身体を濡らし快適な山歩きとはほど遠い。しかし、道筋は昔からの古道であり、比較的にはっきりしているので迷うことはなかった。ゆるやかな登り道を1時間も歩いた頃、ようやくそれらしい場所が見えてきた。洞窟の前に案内板がたっている。

 

 

近くまで行って見たが、入り口は崩れて狭くなっている。中は真っ暗でとてもじゃないが案内人無しでは入ってゆく勇気がない。タイでサッカー少年たちが長期間洞窟に閉じ込められた出来事が頭をよぎった。私だけの言い方かもしれないが小さい頃から「おそろしい」という言葉を「おとっちー」といってきた。この洞窟は文字通り「おとっちー」洞窟なのであった。結局、洞窟内部の見学はせず昼食をとった。洞窟内には入らなかったが、関が原の戦を終えた三成の最後がこの場所であったことを思い、ひとしきり400年前に思いをはせた。多くの戦国武将が最後を迎えると、武人らしく粛々と死を受け入れていく例が多い。しかし三成は最後まで諦めなかったのである。西軍は壊滅的な敗北を喫し再起の可能性は殆んど無い、絶望的な状況だ。ここで同郷出身の武将、田中吉政に捕縛され、京都、三条河原で処刑されるため護送されたという。京都へ護送される途中、警護人が三成の空腹を見かね好意で柿を差し出したところ、柿は丹の毒だから要らない、と断ったといわれる。警護人達が「明日は命もないのに、、、」と嘲笑したところ、「汝らには自分の心が分かるまい、」と言ったそうである。今の世の中でも甲子園の高校野球でスコアで大きく負けていても全力でプレーする球児たちに、同様の気持ちを感じることができる。どんなときでも最後の最後まで「希望を捨てるな」ということであろう。帰りは、渓流を横に見ながら下って行った。ブユがいっぱい私にまとわりつくので難儀した。相棒のT君にはあまり襲ってこなかったのが不思議だった。缶ビールを飲んだT君とノンアルコールビールを飲んだ私の汗が違ったのかな。きっとブユが私と同様、アルコールが弱かったのだろうとあきらめた。帰りの時間が早かったので己高庵の風呂はすいていた。他に入浴客もいなくて貸しきり状態で、あたたかくきれいなお風呂で爽快感が一挙に蘇った。