敦亀通信

この山の悲しさ告げよ

更新日:2018/02/13

滋賀県木之本インターから365号線を長浜方面へ走ると小谷城山が左手にある。ふもとから浅井氏の居城であった小谷城のゆるやかな道を登って行く。信長の軍勢に囲まれ小谷城は最後のときを迎えていた。夫、浅井長政は自害し、今まさに落城せんとする小谷城を幼い三人の娘を連れたお市の方はどんな気持ちで眺めていたのだろう。430年の時が流れ私は小谷城跡に立って往時に想いをめぐらしている。山頂近くに長政の父、久政が秀吉の軍勢に囲まれ切腹した場所がある。ここに立つと厳粛な感情がわきあがってくるのを抑えきれない。10数年前の晩秋の一日、この場所に立った。蝶が舞う季節はとっくに過ぎているのに何万匹という小さな蝶が当たり一面に飛びまわっていた。私には蝶の一匹一匹が戦死した浅井方の武将を慰めているように感じたことがある。私は多少、気味悪さを感じながらも慰霊のために般若心経を唱えざるを得なかった。信長という人は妹を嫁がせた義弟、長政を攻め滅ぼすということになんの抵抗感も無かったのだろう。否、それ以上に自分を裏切った長政に対する激しい憎しみがあったに違いない。戦国の厳しい掟というより、信長は自分の弟を殺し、比叡山では多くの僧俗を殺戮し己の敵を滅ぼすということは生きてゆく上で極めて当たり前の論理であった。それならば何故、長政は義兄、信長に背いたのであろうか?朝倉家との深い絆があったからであろうか?それだけではない、他にも比叡山の焼き討ちと全ての僧俗を全て殺戮した信長のイメージは長政にとって大きな恐怖であった筈だ。そのような恐怖の対象である信長が越前攻めで朝倉勢と対峙し背後ががら空きとなり大きな隙が生じたのであれば長政にとって千載一遇の機会であっただろう。いずれにしても本当の原因は分からない。城が滅び父子も多くの家来も共に死んでしまったという歴史的事実だけである。「この山の悲しさ告げよ野老堀(ところほり)」訪れる人もなく自然薯を掘った跡だけが寂しく残っている情景を詠んだ芭蕉の句を思い出した。小谷城の旧跡にたって感ずるのは昔も今も変わらぬ人間世界の悲しさ、寂しさである。昔も今も複雑怪奇な人生模様は変わらない。危険や障害が無数に生じてくる人生ではあるが、愚直に歩んでゆこう。悪いことばかりではない、いいこともあるだろう。多くの事を素直に受け取りながらも、より正しい道を歩んでゆきたい。歴史は我々に事実を伝えてくれる。そうした事実から色々なヒントや教訓を学び生きてゆきたい。