敦亀通信

望岳庵で思うこと

更新日:2019/09/17

 

ご当地、福井でも2週間前とは別世界のように涼しい風も吹き始めた。今日は家族と一緒に岐阜方面にドライブとなる。いつも運転は長女がするので私は後部座席で楽をさせてもらう。車は快適にR158を東に走る。いつのまにか眠ってしまったようだ。気がつくともう高山市内をはしっているではないか。やがてそこからさらに東進し山岳地帯となる。周囲の景色はまさに山紫水明、春の開花時や秋の紅葉時であればさらに感動は増すこととなるだろう。途中、幹線道路から右に入る道がありそこを辿って行くと、一面そば畑の中に、ひなびた一軒家がある。入り口には望岳庵と書かれた看板がかかっている。ここで、私以外の仲間は今年の春、そばをいただいたとのことで、その美味しさと辺りの風景に感激して今日の訪問となったしだいである。6~8畳の部屋は北側半分に4人が相対してそばを頂ける囲炉裏がきってあり、反対側には5~6人が座れるテーブルがある。土・日しか営業していないようだ。今日も訪れる客が絶え間ないようだ。ご主人夫婦のお孫さんだろうか、7~8歳の男の子がウエイターであり代金受領者でもある。お愛想はいわないがてきぱき任務を遂行している。ただ、自分の任務が終わるとすぐにスマホでゲームに集中するのも現代の子供風景である。1000円のざるそばを注文した。出来上がりを待っている間、北側の乗鞍岳と南側、御岳の風景を楽しむ。乗鞍岳は運よく雲がかかっていないので山全体をたんのうした。南側からの御岳は3合目あたりから上は雲がかかっている。しかしこれだけの景色を楽しみながら手打ちそばを頂くのは贅沢なことである。乗鞍岳を見ながら野麦峠を思った。病んだ身体を、兄の背中に預け「ああ飛騨が見える、、、」といいながら野麦峠で死んでいった政井みねさんと兄さんの心情を思う。御岳では2年前の火山噴火と多くの人たちが命を落とした悲しみを思った。あの日も晴れ上がった日曜であった。楽しいひと時が地獄絵図に一変する。今もご遺族の悲しみは癒えていないだろう。もうひとつ、はるか昔の大正時代、小学生たちと先生の遭難を描いた新田次郎氏の「聖職の碑」のことも考えた。毎年、小学校の夏休み恒例行事として御岳登山をすることになっていたが、折からの天候急変で数十人の子供たちと引率の先生が遭難死した事件である。歴史は決して語ってはくれない。しかし忘れてはならないだろう。飛騨の山は美しいが悲しい歴史を秘めている。

望岳庵からの乗鞍岳