敦亀通信

越後獅子

更新日:2017/09/27

私の車の音響システムに越後獅子のCDが3つも記録されている。ひところ長唄をやってみたいと、越後獅子のCDを集めたのである。越後獅子の歌詞は暗記するほどに努力したのであるが人様にお聴き頂けるレベルには程遠くあきらめた。打つや太鼓の音も澄み渡り 角兵衛、角兵衛と招かれて 居ながら見する石橋の 浮世を渡る風雅者、、、、、、と続くのであるが、声音が高音過ぎ私の喉ではムリではスムーズに発声することができない。さらにすすんで、「辛句甚句もおけさ節」と続き「なんたら愚痴だえ、牡丹は持たねど、越後の獅子は、己が姿を花と見て、庭に咲いたり咲かせたり。」と歌うところがメロディーも歌詞も大好きである。とくに自分が何かに行き詰った時など「愚痴は言いなさんな、己は何も持っていないしがない人間だけど、自分自身を大切に、自然な姿で生きてゆきましょ。」などとひそかに励ましているのである。ここで越後獅子のことを角兵衛とよんでいるが由来は色々あるらしい。水戸の浪人、角兵衛が何者かに殺害された。そのとき角兵衛が犯人の足指をかみ切ったという。角兵衛の息子角内・角助兄弟が逆立ちの芸を演じながら「あんよを上にして、あんよの指の無い者に気をつけて見なはれ」とやりながらあだ討ちの旅をしたというのが由来という説、もう一つは月潟村(新潟県)に水害が発生し壊滅的な被害を受けた。この付近は信濃川水域で氾濫も多かったのだろう。当然、あちこちの水田から秋には取り入れるはずであった食料も枯渇し飢饉の口減らしのため幼い子供に獅子踊りの芸を仕込んで生業にしたという説がある。角兵衛獅子には親方がいて、子獅子をつとめる子供を養子にもらい、彼らを育てながら芸を仕込み、そうした子供を数人連れて日本各地を巡り歩き生計を立てていたのであろうか。親方が角兵衛獅子として子供を預かるとき、いくらかの金銭の授受が実の親との間にあったのであろう。前者よりは後者の説が私には現実的に感じられる。お隣の越中富山は薬売りの承認が全国を行脚した。越後獅子の諸国巡業は江戸中期からと伝えられ、明治に入り減少し大正期には、ほとんど姿を消した。現在は月潟村の角兵衛獅子保存会により、郷土芸能として伝承されている。こうした角兵衛獅子を江戸時代9世杵屋六佐衛門が長唄として発表し中村座で公演したところ大変好評で、それが現代にまで続いているという。ここに掲げるのは明治初期の写真である。 外国人がチップをはずむので横浜には大道芸人が集まった。特に右端の子供の表情が何とも愛らしい。