敦亀通信
山本山
更新日:2023/07/26
7月22日 梅雨も上がり猛暑が続いている。暑くなる時間帯を避け朝5時に滋賀県 湖北の山本山を目指す。山本山は私のお気に入りである。もう何十回も登っている。いつ来ても、その時々の季節が織りなす自然の風景や湧き上がってくる気持ちがいつも新鮮である。山本山の歴史を調べてみると次のように紹介されていた。「山本山の歴史は山本山城が平安時代末期に山本義経によって築かれたところから始まる。戦国時代には織田信長による浅井攻め時、時の城主、阿閉貞征が信長に降ったことで浅井長政の小谷城は孤立し浅井氏は滅亡したという。その後、阿閉貞征は「本能寺の変」で明智光秀に加担し、秀吉方の長浜城を攻めたため秀吉に追討され滅亡したといわれる。このとき山本山城も廃城となり現在は山本山から賤ヶ岳までの約8kmがハイキングコースとして整備されている。若年時、このコースを仲間と一緒にこのコースを辿ったが現在ではその体力はないだろう。さて、福井から山本山への道程であるがR8を南へ辿り越前市を過ぎたところでR365方面に右折し南越前町から敦賀に向かう。敦賀市内で再度R8に戻り湖北を目指し県境を越えると右手には琵琶湖が見え湖岸道路から湖北町に入る。湖北町の中央部に朝日小学校がある。因みに私の出身校は同じ「あさひ」であるが字は「旭」である。そんなことはどうでも良いか、、山本山の登り口は朝日小学校に隣接している。頂上まで登山口から約40分程度である。今日は暑さも考えゆっくりと石段を登ってゆく。5分もすると常楽寺の境内に着いた。このお寺は住職居住用の建物も隣接しているが、いつも玄関戸は閉じられているので無住となっているのかもしれない。境内のあちこちにお地蔵様風の石像がある。古いものから最近、作られたものまで沢山置かれている。中には男女がペアになっているものも多い。おそらく子供が亡き両親を偲んで作ったものと思われる。それぞれの地蔵様の表情に癒される。しばらく行くと右手に日露戦役時の戦死者を弔う巨大な慰霊碑がある。戦死者を弔う言葉が彫られているが私には読めない。後世の人が読めるような字体や文章になっていないが昔はこれが当たり前だったのだろう。最後に長岡外史と名前が書いてある。長岡外史といえば司馬遼太郎「坂の上の雲」に登場する陸軍参謀次長でありプロペラ髭と呼ばれ左右に大きく広がる八の字髭をはやし当時の陸軍をリードした将軍である。当時、保守的な考え方が多い中で柔軟な思考法を持ち、ロシアとの講和条件などにも影響を与えた人ときく。明治は遠くなりにけり、というが我々の遠い諸先輩たちの心に思いを馳せる事も楽しいひと時である。慰霊碑をさらに登ってゆくと休憩所がありベンチが置かれ、木々の間から琵琶湖が見え、小学生が書いた「頂上まで15分」という標識が登山者を力づけてくれる。2週前に、この山に来た時が「ホーホケキョ」と鶯が啼いていた。今日も同じ場所で啼いている、きっと鶯のテリトリーに入っているのだろう。鶯は春に啼くものと思っていたが暑い夏の盛りにも啼くことを知った。鳥と言えば、この山は例年11月20日過ぎにシベリアから大鷲が飛来し3月末には帰ってゆく。もう20年にもなるとのことで「山本山のおばあちゃん」と呼ばれ地元では大変愛される存在だ。土日には数十人のカメラマンが湖面に泳ぐ30~40cm級のビワマスを捉えて飛翔する大鷲の姿を狙いカメラを山側に向けている。大鷲を見たい場合、その時期に湖岸の観鳥ステーション(有料)で大鷲の巣に向けてカメラの照準が固定された望遠鏡があるので見ることができるだろう。今年もおばあちゃんは元気な姿を見せてくれるであろうか、楽しみである。休憩ベンチからしばらくで山頂に着くが頂上は昔、城があったことを示す標識だけで何にもない。ただ、琵琶湖と竹生島が見えるポジションがあり、此処からの景色はいつ見ても素晴らしい。ここまでくると汗びっしょりである。木立の間から湖からの涼風が私の頬に「よーきなったのー」とやさしく語りかけるようだ。