敦亀通信
南無地獄大菩薩
更新日:2017/07/28
九州北部は今年春の震災に引き続き先ごろの集中豪雨で甚大な損害を被りました。尊い人命を失った方々のご冥福をお祈りするとともにご家族、そして多くの被災者の方々に心よりのお見舞いを申し上げます。いま、皆様はまさにこれが地獄、という奈落の底で毎日奮闘されておられることでしょう。どうかご自愛頂き一日も早い復興をお祈り申し上げます。越後の良寛和尚は当時、越後で発生した大地震に遭遇した。そのとき知人に送ったお見舞いの手紙で「、、、災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には死ぬがよく候。これはこれ災難を逃るる妙法にて候。かしこ」と述べています。人間世界には自然災害をはじめとして多くの苦難があります。その中でも一生に一度あるかどうかの苦難をこの世の地獄といえましょう。京都、南禅寺 管長 柴山全慶師の「越後獅子禅話」のなかに地獄に関する二人の紳士、A氏とB氏についての挿話が語られているのでご紹介しましょう。
A氏、B氏の2人は互いに俳句をたしなむ仲の良い句友であった。ところがある日、A氏が事業に失敗し負債に責め立てられ八方ふさがりになった。銀行からの借り入れも打ち切られ万事窮すとなったとき友人B氏が思い浮かんだ。B氏とは仲良く友達づきあいであったが、仕事や家庭のことなど話し合ったことはない。なんとかして、B氏の好意にすがるため自宅を訪ねたのである。「Aさん今日はどうしたのですか?」A氏の真剣な面持ちにB氏は怪訝に思い尋ねたのである。A氏、「今日は俳句という趣味でのご厚誼に甘え、全く不躾とは思いますが、お願いに上がりました。○○○万円ほどの謝金をお願いいたしたいのです。私の仕事の手違いで、○○○万円ほど必要になりました。今日まであらゆる方策を尽くしましたができませんでした。俳句仲間という趣味の世界でご厚誼を頂いている貴方に借金を依頼しなければならなくなりました。○○○万円あれば何とかなると思います。何卒お願いします。」B氏、「大金ですね。私にそれだけの金は、、、、、」A氏、「ご無理なことと思います。でもなんとかお願いします。」両人ともしばらく沈黙が続きました。しばらくしてB氏の表情が和らぎ「申し訳ありませんが、明朝9時にお見えいただきたいと存じます。その時にご希望に添うことができますか否かをお返事させていただきます。」 翌朝、早朝に降った雪がまだ点々と残る道をA氏はB氏の家まで歩いていった。B氏宅の門をくぐり「おはようございます。いつもお世話になっているAでございます。」とご挨拶するとB氏の家人であろうか、万事心得顔で「どうぞ」と通されたのがB氏の茶室であった。茶道口より茶室へ入ってみると炉には炭火が赤々として、馥郁と香がただよっている。床の間の前に進んで一礼して頭を上げると、「南無地獄大菩薩」と、ふてぶてしくも肉太に書かれた一軸が懸けられているではないか。A氏の胸中は昨日からの出来事をあれこれ思いつつ、この「南無地獄大菩薩」の一軸から生ずる異様な雰囲気に、心安まるものではなかった。B氏の好意に有無によってこれから自分が生きるか死ぬかということが決定されることを思えば、茶だの俳句だのという風雅の心情は全くなかった。ただ望むところはB氏が応諾してくれることである。それが今からこの茶席で決まるのである。B氏の心の底に地獄の毒気を浴びせかけるかと思わせる「南無地獄大菩薩」、うす気味悪くて目を背けたくなる一軸であった。それでいながらも何か心を惹きつけられるものであった。四六時中、自分の心を占めている破産という恐怖、そうしてその後の自決が、渾沌と「南無地獄大菩薩」に打ち重なり、耐え難い苦渋となって胃の腑を突き上げるのだった。それからどれくらい時間がたっただろうか。A氏を席に待たせたまま、B氏はいっこうに姿を見せない。A氏はいつのまにか「南無地獄大菩薩 南無地獄大菩薩、南無、、」と声にならない声をあげていた。かすかに鳴る茶釜の音は、地獄の底の雷鳴のようにA氏の心中にたぎり立つ。 「地獄を嫌い極楽を望むのは人間の真実である。だからといって厭い嫌う地獄に堕ちず、極楽だけに住む人間が一人でも地上に存在するであろうか、無苦であり、無悲であり、無痛であるということはありえない。大小の差こそあれ、誰も彼も悲しみを抱いており、苦しみを味わっている。有るとしても、極楽の歓びはちらりほらりしたもので、やがて地獄のどん底に叩き込まれるのが人間というものの在り方ではないか。地獄を厭い避けようとすればするほど、地獄はより盛大になり、人の頭上に覆いかぶさるのである。この地獄、この厭い嫌う地獄を、そのまま南無と帰命し、大菩薩と合掌礼拝する底のものがあれば、これを何と解したらよいだろうか。」
A氏はいままで見たことも無く経験したこともない一条の光を感じた。「そうだ、来るべくして来る地獄なら来るがよい。堕ちなければならない地獄なら堕ちるがよいのだ。逃避できる地獄ならば、それはもう地獄でもなんでもない。地獄というものは絶対に逃げられないものなのだ。逃げられないものなら担って行くよりほかにない。 そうだ、地獄の中にあって己の能力の限りを尽くすことだ。倒れるまで、死に至るまで最善の努力を続けるのだ。 A氏は、簡単に他人の好意にすがって、地獄から逃げようとしていた己れの甘さと卑劣さにむしろ悲しみを覚え、だんだん落ち着紀を取り戻した。やがてA氏はゆっくり床の間を離れて炉辺近くに坐を移した。しばらくすると 茶道口が静かに開かれて、菓子器を持ったB氏が現れた。「今朝は早朝より足もとの悪いところを御来席有難いことです。お待たせいたしましたが、まず、一服お点(た)ていたします。今日は折りよく雪見の御茶となりましてまことに結構かと存じます」これにたいしA氏は「本日のおもてなし、無上に存じます。お床の一軸はこの上もなき結構な御警策(けいさく:坐禅の時督励のため坐者を打ち据える)、厚くお礼申し上げます」B氏から「水屋のほうでお伺いしておりましたところ、床前にて時を相当に過ごされたご様子、一軸から何かお手に入りましたでしょうか。」とA氏に問う。A氏「はっきり私の口からは申し上げかねますが、今まで気付かなかった世界に触れまして、死中に活を得たように思えてなりません。ところで、この一軸はどなたの書ですか?」
B氏はにこやかに「白隠禅師のご染筆です」「恐れ入りました。これが白隠禅師の」A氏は眼を輝かして、床の一軸に再度、視線をこらした。「大それたことを申すようですが、私にはこの南無地獄大菩薩は白隠禅師そのものと思われます。禅師は人々の厭い(いとい)嫌う地獄を大菩薩とすなおに受け入れ、全身全霊で礼拝されたお方であると拝されます。破産と自決を覚悟しておりましたこの私に、この一軸は天来のご教示でした。すぐにでもおいとま願って、地獄の釜の底破りに奔走したいと存じます。」とA氏は力強く自己の思いを素直に述べた。B氏「有難いことです。今日はお招きした甲斐がありました。さすがにAさんです。この南無地獄大菩薩はお持ち帰りくださいまして、あなたの座右にお掛け下さい。白隠禅師もきっとお喜びになると存じます。」「有難うございます。いただきました。確かに私の南無地獄大菩薩として頂きました。でもこの一軸は、私のような者にさえ一道の光明を投げ与えてくださったのですから、なお多くの光となりますよう、いつまでもあなたの家に秘蔵されますことを希望いたします。それから昨日お願いした金子御融通の件、一応お忘れおきをお願いします。地獄に体当たりしてみる覚悟でありますから」と、なにもかもふっきれたA氏の態度であった。柴山全慶 老師の「越後獅子 禅話」より一部、私流に修飾させて頂きご紹介させて頂きました。私はこのお話から遭遇した大きな苦難に救いを頂くことができたものであり、心より感謝している次第であります。人生においては、誰にでもこれと同じような場面は遭遇することが多々あるのではないでしょうか。「そのときどうする、、、」という事が真実一大事でありましょう。この挿話では問題に対し自分自身の力で正面から対峙してゆくことが語られていますが、このような対処法がいつも正しいわけではありません。地獄に対する心の持ち方行動の仕方は無数に存在するはずです。こうした対処法もあるんだ、というように柔らかに考えるべきかもしれませんね。しかし私個人としてはこうした生き方を願っています。