敦亀通信

北国街道と明治天皇

更新日:2019/03/19

今日は3月9日、日曜日である。いつもは早朝から山に行くのだが、町内の一斉清掃で出発が遅れたので友と今庄の鍋倉山を目指した。鍋倉山の南に連なる藤倉山への縦走路にしたいがそれだけの時間もないだろう。いつもは今庄の北側にある88箇所登山口から登ってゆくのであるが今日はもう少し北にある湯尾(ゆのお)地区から登る事とした。駐車場に車を止めて集落を歩いてゆく。リュックとストックがなければ二人とも風采は良くないので何の用事で歩いているのだろうか、、と思われ不審者の疑いも生ずるかもしれない。登山口の手前にある民家で一人の主婦が作業をしていた。こちらが聞きもしないのに愛想よく「登山口はあっち」と教えてくれる。「藤倉山まで縦走するの、、?」ときかれ、あわてて「はい、、、、」と答えてしまった。実際には縦走なんてできないのだが、誰も結果を見届けにはこないだろう、多少見栄を張ってしまった。北国街道とは律令時代から越後の国まで続く北陸道といわれている。時代の推移とともに当時の面影が薄れてゆく中で、ここ南越前町には以前の風景や遺物が数多く残っているといわれている。北国街道の入り口はすぐに見つかった。

「熊注意」の看板を別にすれば、ゆるやかで気持ちのよさそうな道である。そこを登ってゆくこと数分、やがて広くはないが平らな場所に着く。ここに明治天皇が明治11年北陸巡幸の折、小休止されたという記念碑があった。

明治天皇の北陸行幸について興味があったので詳しい情報をさがしたところお隣の石川県の河北潟湖沼研究所河北潟歴史委員会の宮元真晴氏が当時の記録から「明治天皇北陸巡幸とその時代背景」として2012年に発表されておられる。大変興味あるお話が満載なのでその一部をご紹介させて頂いた。明治11年『1878』8月30日東京をご出発になり同年11月9日に御還幸で72日にわたるご巡幸であったという。主なる巡幸の供奉員は右大臣・岩倉具視、参議兼大蔵卿・大隈重信、陸軍少輔・大山巌、大警視・川路利良、宮内大書記官・山岡鐵太郎、その他、品川弥次郎、井上馨など明治の元勲、維新の功労者や巡査や近衛兵など警護の人たちも含めると総勢798名、そして乗馬116頭が参加する大部隊であったという。これをみると投じの政府が大挙して天皇に随行して動いている感さえする、と記されている。当時の日本は維新直後の動乱期であり明治7年~明治9年は不平士族による反乱が各地で勃発していた頃とされる。ちなみに各地で生じた乱は以下の通りである。

佐賀の乱 明治7年(1874)、神風連の乱 明治9年(1876)、秋月の乱 明治9年(1876)、

萩の乱 明治9年(1876)、西南戦争 明治10年(1977)

また、西南戦争が終わった後も紀尾井坂事件で西郷隆盛と並んで維新における最大の元勲大久保利通が暗殺されたのが明治11年5月であり、今のように交通手段などまったくない不便な時代、これだけの規模で行幸がなされたのである。今は訪れる人もないこの空間で近代日本をつくった多くの人たちがしばしの休息を取ったのである。杉の木立も苔むした岩も何も語ってくれないが確かな明治がそこにあったと感じる。