敦亀通信
前歯の思い出
更新日:2019/07/05
お隣の韓国は弥生時代から中国へと続く大陸への入り口であった。そうしたことから大和王朝時代には韓国からの渡来人が多くいたようである。
こうした大陸からの人たちが仏像や観音像を彫り百済観音などの素晴らしい彫刻も存在している。
今、我が国と韓国との間が険しい状況となっている。思うに東洋の人たちは古来より西洋の人たちから黄色人種と呼ばれ外見は同じようなルックスと見られている。しかし国民性や思考法には大きな相違がある。今、両国の間には相手に負けまいとする競争心や嫉妬心が渦巻いている。これに加え双方の異なった歴史観からくる負のエネルギーがぶつかり合い、過去の事実を水に流すことが大変困難な状況に陥っている。
ところで、私にも忘れられない中学3年のときの思い出がある。当時、昭和30年前後であったが、朝鮮籍の人たちが私たちの街にも数多く住んでいた。彼らは戦前から自発的、若しくは強制的に日本へ来てそのまま日本で生活している人たちであった。私の街では廃品回収の仕事をしている人に韓国の人が多かったのを覚えている。H君もそうした家の息子であった。H君は私より1歳年下であったが、私の中学では誰もが恐れる番長格であった。身体はそんなに大きくないが度胸があり、当時の我々は地区の祭礼や遊びの場でH君に出会うと小遣い銭を巻き上げられたりするので彼が来るとできるだけ早くその場を去ることが多かった。ある日のこと、今では詳細な理由も覚えていないが、何かの理由で私はH君と1対1の決闘をすることになった。場所は今では福井の繁華街となり放送会館が建っている場所である。当時はこの建物も建てられておらず資材置き場となっていた。時間は夜の8時ごろだったと記憶している。暗がりで向かい合った2人であるが、ボクシングまがいの殴り合いはせず、相撲のように取っ組み合いのけんかであった。勝敗は簡単についた。腕力に勝る私が彼を組み伏せ地面に彼の頭を強く押さえつけ「参ったか!」と降参をうながすのである。すると期待通り彼は「参ったー」といって簡単に降参する。私はこれで勝った、と思い相手から離れる。しかし降参したはずの相手が再び起き上がり私に向かってくるのである。私は今度は相手の腕を捻じ曲げ、「参ったか!」と再び降参を促す。すると彼は「参ったー」という。私が力を緩めると、彼は又、攻撃に転じてくるのである。こうした繰り返しを数回はやった。
相手を地面に組み敷き、彼が発する「降参」の声を聞きながら、喧嘩を終わらせるには私が彼の腕を折って動けなくなるほどのダメージを与えなければ終わらないかもしれないと感じ始めた、そのときであった。私の口元に何かが飛んできて大きな衝撃を与えたのである。私は一瞬何が起きたか分からなかったが、彼が起き上がると同時に地面にあった石を私にぶつけたのである。その距離は3~4mであっただろうか。真っ暗の中で私は何が起きたのか分からなかった。私は運が良かったのだろうか。私の片方の手のひらが口の近くに位置していたので、それが私の前歯と唇を多少傷つけただけで済んだのである。私には相手の身体を傷つけるだけの度胸はなかったのである。このけんかは私の負けであると思った。今度は私が「参った!」といわざるを得なかった。相手が言うところの「参った」ではなく正真正銘の「参った」であった。彼は私の前に立ち私の顔をこぶしで力いっぱい殴った。これでけんかは終了であった。その後、H君の家に行った。彼の家は近くを流れる堤防の上にあった。粗末なバラック建築であったが、当時このような家は多かった。彼のお父さんが事の次第を聞いて、私を褒めてこう言った。「うちの息子は、みんなから嫌われているのに、友達になってくれてありがとう。これからも二人仲良くしなさい」こういった内容であったと記憶している。あれから60数年の月日が流れた。H君はその後、多くの朝鮮籍の人たちと北朝鮮へ帰還した。かの国でどうやって生活しているだろうか。私の前歯は、その後、義歯に取って代わったがH君の思い出は忘れられない。