敦亀通信

夏休みの平泉寺散策

更新日:2018/08/16

お盆休みを控えた8月11日(土曜日)大野から平泉寺に行った。門前の駐車場のスペースはまだ余裕があり楽に駐車できた。大勢の観光客がいる。車のナンバーは殆んど県外車両である。有名観光地の駐車場は殆んど有料であるがここは当然無料である。平泉寺は遠く奈良時代、白山を始め多くの山を開山したといわれる越前麻生津の僧、泰澄大師が開基といわれている。DSC_0494

緩やかな石段を登ってゆくと左手に泰澄が白山の神からお告げを受けた御手洗池がある。平凡な古池であるが泰澄大師がこの池のほとりで白山神のお告げを受けた後、白山に登頂したという。平泉寺については平家物語のどの部分であったか忘れたが平泉寺の僧兵たちが都で何か事件が起きたとき平泉寺の荒くれ法師達が坂本まで大挙、押し寄せたというくだりを覚えている。今風にいえば静かなデモ行進ではなく暴力的な示威行進的なものかも知れない。平泉寺6,000坊といわれるが普通の僧侶だけでなく、多くの僧兵もいて寺領を守ると共に戦国の世にあっては武士団に負けない力を持っていたのであろう。しかし天正2年(1578年)加賀、越前で生じた一向一揆によって全山滅ぼされ灰燼に帰してしまったという。越前守護の朝倉義景は織田信長によって攻め滅ぼされ、義景に従兄弟であった朝倉景鏡は義景を裏切ることによってかろうじて生き延び得たが、一向一揆の勢力は益々強くなり独力で生きていけなかったのである。これは平泉寺も同じであり、平泉寺と朝倉景鏡が連合し一向一揆に立ち向かうという生き残り策をとったのであろう。当時の一向一揆側は京都の本山からの支援もあり、戦の末に流浪した武士も混じり非常に強力な戦力を持っていたとされる。結局、一揆側と平泉寺の戦いは一揆側の勝利となり朝倉景鏡も一緒に滅んでしまった。現在はわずかに当時の遺構を残すのみであるが広大な寺域はそのまま残っている。京都西芳苔寺は苔寺として有名だが、ここ平泉寺の青々と広がる苔も素晴らしい。苔の質、量は日本でも有数の規模であるが連日の猛暑と日照で色もあせていた。DSC_0496

しかし樹木の間からさわやかな風がながれて街中とは別天地である。京都を逃れ奥州平泉を目指した義経主従がこの平泉寺を訪れた言い伝えがある。平泉寺の勢力は大きいものがあり敗残の身であった義経にとっては、藁をもすがる気持ちであったのかもしれない。ここを出て加賀に入り安宅の関でお供の武蔵坊弁慶が有名な勧進帳を守護、富樫氏に披露することとなる。途中、平泉という苗字の表札を掲げている住宅もあった。平泉という苗字だけでも名門という雰囲気を感じさせる。国文学者、平泉澄先生の皇国史観は戦前、戦後の日本歴史や日本という国を考える上で大きな影響を与えたとされる。又、福井県の自由民主党所属であった衆議院議員(故)平泉渉先生は戦後、国政の場でおおいに活躍された。駐車場に戻り、近くの売店で妻と娘はソフトクリームを私はかき氷を求めた。