敦亀通信

野麦峠・記念館

更新日:2018/05/08

GWの1日、長女夫婦、私たち夫婦が長距離ドライブを楽しみ野麦峠に来た。高山までは何度も来ているが、そこからさらに東進し険しい山岳地帯を走る。高山方面へ西進する対向車と狭い道を何度もすれ違うが緊張の連続である。私の時計の高度計は既に1600mを越えているがさらに登ってゆく。ようやく野麦峠に到着した。高度が高いため、あちこちに残雪が残っている。北の方角に乗鞍岳がそびえ記念碑やお地蔵様、記念館がある。入場料300円を支払い館内を見学する。入場すると先ず、女工さん姿のマネキンモデルに迎えられる。美人である。明治時代の女工さんは色々な方が折られたと思うが、あまりの美しさにしばし佇んだ。

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館内では映画「ああ野麦峠」の予告編を放映していた。先着のお客様と我々4人を含め7人の観客である。予告編なのでストーリー性に欠けるが、早くもあちこちでハナをすする音がする。明治42年11月、病に倒れた工女さんが兄に背負われて、飛騨へ帰る途中、野麦峠に着いて乗鞍岳を見、「あゝ飛騨が見える、、、」といって息を引き取るシーンは観客全員が泣いていたと思う。映画では吹雪の野麦峠を大勢の女工さんが列をなして峠を登ってくるシーンが圧巻であった。工女さんたちのいでたちは絣の着物とわらじがけだけである。2月~3月の飛騨地方の平均気温が5度とすると標高1670mの野麦峠と飛騨地方では1,000mぐらい高いので気温はおそらく氷点下であったと思われる。おまけに風があると体感温度はさらに下がることになる。現在のように冬山装備をしていても寒さで手足が痛くなってしまうだろう。時代が違う、、、と言ってしまえばそれまでであるが、、明治の女性は強くたくましかったのだな、と感心する。明治維新により開国した日本という国が経済、軍事がはるかに進んでいた欧米列強に対応してゆくため、国を挙げての殖産事業を推進し、その中でも中心となったのが織物産業であった。養蚕家から集めた繭から糸を紡ぐ製糸業が岡谷を中心とした地域に数多くあったといわれる。こうした製糸業で働く女工さんが飛騨地方から数多く信州へ出稼ぎに行ったといわれている。多くの女工さんはくちべらしのため、すすんで志願する人も多かったようだ。仕事になれるに従い給料も増加し中には100円工女として故郷に送金する額も多かったようだ。しかし、労働基準法もない明治の時代、働きすぎて身体を壊しさびしく野麦峠を越える工女さんたちも多かったのだろう。昭和43年、作家、山本茂実は当時未だ存命していた多くの女工さんたちに取材し「あゝ野麦峠」として発表した。私もこの本を古本屋に注文したところすぐに届いた。時間のあるときにじっくりと往時を偲びつつ読んでみたい。工女さんたちの苦労を偲びながら、まだまだ頑張らねば、と感じた1日である。