敦亀通信

福井大震災のおもいで

更新日:2018/06/30

昭和23年6月28日夕方、福井大震災が発生した日である。この頃になると、様々な体験談が新聞やTVに登場する。どの人も80歳ぐらいの方々であるのが共通している。私はs18年生まれで地震発生当時に、まもなく5歳を迎える頃であったから幼児体験としての福井大震災はお伝えできると思う。当時は終戦後間もない時であり、空襲で待ちが殆んど焼け野原になった福井にも米軍が進駐した頃だと記憶している。米軍からの配給であったのか正確なところは分からないが砂糖が大量に配られ我が家でもバケツにいっぱいあった。当時、お菓子などは我々には夢物語であり、この砂糖を鋳物で作られた鍋にいっぱい入れて七輪上でぐつぐつ煮続けるとそれが溶けて水飴になるのである。それを箸でかき回すと飴が箸の周りにくっいて美味しいおやつとなるのである。その日は、二人の姉、そして私は土間の「へっついさん」の上に据えられた七輪の鍋で母が作りつつあった飴を今か今かとジッと見ていたのである。「へっついさん」といっても分からない言葉と思うが、墓石やお宮の狛犬、鳥居などを作る尺谷石で作られた「かまど」を福井では「へっついさん」と呼んでいたのである。そのとき、突然今まで聴いたことも無いような大きな音が耳に入ったのである。次の瞬間、私は立っておれず土間に転がってしまった。ころがったところは乾燥させるために保管していた数十個のジャガイモの上であった。このジャガイモが揺れと共に土間の中でころがりまわるのである。ジャガイモの上に横たわっている私はそのままあっちへ転がりこっちへ戻りその都度、身体のあちこちをぶつけていた。母が私を小脇にかかえ家の外へ運び出してくれたのであるが、それがなければ、恐らく生きては居なかったのではないかと思う。水道は当然、停止しているので歩いて15分ばかりの所にあるポンプ井戸まで水を汲みに行った。近くのKさんの家が倒壊して家の下から「助けてー」という声が聞こえる。その家の前でみんなが、たむろしているが誰にも助けられないのである。今から思うと救助隊は望むべくも無いがジャッキやバールで助けられなかったのかとも思う。しかし全てが破壊された状況では、そうしたことも出来なかったのであろう。だんだん助けを求める声も小さくなった。Kさんが助かったということは聞いていないので3,000人を越えた尊い犠牲者のお一人となってしまったのであろう。その日は戸外の畑に蚊帳を吊って寝た。福井駅方面の空が火事で真っ赤に焼けていたのを覚えている。当時の年齢では覚えていることも少なく今となっては記憶の断片に残っているだけである。多くの人々や私の父母が苦労したことも知らない。ただこうして思い出を書けるのは、そうした多くの方々のおかげであることを思って感謝しながらこれからの人生を歩んでゆきたい。