敦亀通信

豪雪の記録

更新日:2018/04/11

豪雪の後は急激に春めいたので桜が例年以上に早く咲いて葉桜状態である。今日は長浜市木ノ本町の賤ヶ岳(しずがたけ)を目指した。賤ヶ岳といえば秀吉が柴田勝家と雌雄を決し天下取りを成就させた山であり賤ヶ岳七本槍として秀吉子飼いの武将たちが手柄をたてたことは昔から有名である。今日は余呉湖畔で休業中の国民宿舎から登ることとした。賤ヶ岳頂上までゆく途中に峠がある。この峠を下ると琵琶湖側に降り国道8号線脇の飯浦地区に着く。飯浦に着いたら再び国民宿舎に戻るコースを辿ることとした。何故、このような変則的コースをとったかというと、飯浦地区から余呉への道を確かめたかったのである。飯浦へのコースはこれといった良い景色もなく戦国の歴史的な遺物も見当たらないので単なる運動不足解消コースとして考えていた。しかし通常の山行では見られない貴重な体験をすることが出来たのである。午前8時、国民宿舎前にから賤ヶ岳頂上へ歩き出した。峠まで20分程度の登りである。ここまではいつもの通りであった。峠を越えると飯浦への下り道であるが、道も荒れ歩き難くなってきた。降りはじめてすぐ山道に一頭の鹿が死んでいた。半ば白骨化してはいるが尻の部分や脚の部分は肉が残っている。鹿の毛がいっぱい広がり身体全体を覆っている。立派な角もある、オスの成獣であろう。DSC_0305

滋賀の山では春先によく見られる光景であると思いながらそのまま歩き続けた。すると、そこから100mも行ったところに別の鹿が死んでいた。この死骸も同じ頃に死んだのであろうが角は生えていなかったからメスと思われる。さらに下ってゆくと30~40mおきに同じような死骸が4匹あり合計6匹であった。これだけの死骸を見たのはこれまでの山歩きの中で初めての体験である。最も激しく雪が降った期間は2月6日から9日ごろなので彼らが死んだのもその頃と見てよいだろう。飯浦地区へ着いたので降りてきた道を再び登り返した。登ってゆく道は鹿の死臭がわずかに残っている。歩きながら遭難?した鹿達の状況について色々と思いをめぐらした。一番上に死んでいたオス鹿は群れのリーダーであったのだろう。とすると、残りの5匹は妻であり娘達であったのかもしれない。峠を挟んで飯浦へ降りる道で最も峠に近い高所にオス鹿が死んでいたが、1番最後に残ったのだろうな、、と思う。杉木立ばかりで何にも食べるものが無い飯浦側からひょっとすると樹皮にでもありつけるかもしれない峠の向こう側にある余呉を目指したのであろうか。体力の尽きた鹿から1匹ずつ死んだのであろう。登山中にピイーっと笛を吹くような鹿の鳴き声がきこえる。あれは「人がいるよ、用心しよう」と仲間に呼びかけるものであろう。猛吹雪と極寒、絶食から来る飢餓、肩の上にまで達する深雪の中、6匹の鹿は彷徨していたに違いない。明治の中期、青森の連隊が雪の八甲田山で遭難した。多くの兵隊さんが凍死したとされるが、映画「八甲田山死の彷徨」の中で隊長役の北大路欣也が「天は我らを見放した」といいながら最後を迎えたシーンを思い出した。我々人間たちは「寒い、寒い」「豪雪で大変だ」などといいながらも逃避する手段や場所には不足していないのである。こうして考えてみると恵まれている自分をありがたく思う。そうはいうものの人間世界も新聞をみると天災や悲しい事件や事故がいっぱいある。常に謙虚で感謝できる人間にならなければ、、、、と思う今日この頃である。暗い話になったが飯浦の部落で農家の庭先にワンちゃんが繋がれていた番犬として吼えるのが彼の役目であるが、見知らぬ我々を見ても無表情で全く反応が無かった。鹿達と違ってよほどお目出度く恵まれているのだろう。

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